これは私が最近気づいたことですが「いかに私が相手の発言・言葉を受け止めていないのか」に気づきました。
私は相手のことを「受けとめる」のではなく「理解する・分かろうとする」をやっていたのです。
「受けとめる」と「理解する・分かろうとする」では、相手の中に全く別の種類の体験を引き起こします。
受けとめる:ができた場合、相手はまさに「受け取られた」「受容された」という感覚を得るのです。
それに対して「理解する」を行った場合、相手の中には「分解される/切り刻まれる/相手独自の解釈によって支配される」という感覚が生まれます。
本を読んで、勉強をして、いろいろな知識や思考をいれて、、、、 それはとても切れるハサミを手に入れようとしているようなものです。物事を分解してあらゆる側面から眺めて「知る」ためには有効かもしれません。
ただしそれによる代償として相手には「一緒にいない。受けとめてもらえていない」体験が生まれるのです。
相手のことを「理解する」必要は本当はないのかもしれません。ただ相手の言葉や存在と一緒にればよいのです。
そして本当に相手と一緒にいれるとき、「わたし」と「あなた」との境界はなくなり、トランスフォーム(変容)が起こるのです。